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(ⅱ)もしも我家の猫に日本語が喋られたら

【もくじ】 〔H29.06.21 更新〕

①:ヒトの一般的見地から      
②:親子で違うところ ~ 行動様式  
③:《巣立ち》させること ?    
④:母性本能 ?          
⑤:ヒトの乳幼児と比べて          
⑥:中締め です         
⑦:続・中締め です        
⑧:続・中締め です(2)        

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●前置き です。
・猫がヒトの『言葉』と同視されるものを取得するとすれば さあ いつのことでしょうか。
〔その時期が招来するとしても その時には現在の体形とは異なっていることと思います。〕
・猫が認識している内容を知ってみたいということからの発想ですが 今現在 到底不可能なことですので 当方の一方的な見解からの言及としてみようと思います。

・当方に物心がついて以来 当方にとっての猫は身近な存在です。
・これまでに 何匹の猫と向合ってきたのか。『コロ』から『コマ』そして『いそ』に続いて数え上げるには両手指の折り曲げが必要です。
・現在 我家にいるのは 生後15年になる雌猫一匹だけになりました。
・この一匹を主体として この猫を主軸にした《親と子》を主題として脈絡なく随時触れてみます。

・猫の名前についてですが 当猫の【思惑】次第で当方にすり寄ってきますので つける必要がなく今もって 名前はありません
〔当猫が近寄ってくるときには当方の反応を求めていますので ~どおーしたん~ と言って対応しております。〕
・が 記述上で内容が不明瞭となることを回避するため 当稿では 雌猫ではありますが名前を『漱石』としておきます。

●以下 本文に続きます。

① ヒトの一般的見地から〔H25.12.08〕

●一般的に 猫は犬に比して動作が静的であるとされていますね。
〔ただし 猫に似た動作をする犬もいると聞き及んでいます。〕
・しかしながら『漱石』と『漱石』の親猫は 犬に類似した動作をします。
・親猫の場合です。夜中の行き先はどこだろうかと後について行った時の 公園でのことです。
・犬を連れていた人から『猫だったんですね。犬かと思っていました。』と言われて よくよく観察してみると なるほど 遠目では犬の動作と酷似していました。 
・また『漱石』はというと 狭い家の中を走り回ってみたり 当方の行く先を駆けてから振返って見る ということをします。

・かつて表現されていた《男の子・女の子》の内容 に類似しているものと思います。

●雄猫は三味線の皮には用いられない といわれています。
・なるほど 『漱石』は 人間関係でいう《甥》にあたる猫が 家外で他の猫と闘争を始めた途端に 勢いよく猫用の出入口から家内に逃げ戻っておりました。〔甥猫とは いつも家の内外で一緒にいましたから〕
・しかしながら 甥猫の病死後は 気の合わない【訪問】猫には果敢に立ち向かっています。
・そのためでしょう 現在では右耳先端には切れ目が入っており また 小さな可愛い 前歯は上下とも3本づつ欠けております。
・多分 三味線には役立たないでしょう。 〔そのつもりは ありませんが・・〕

・環境による行動様態の変化といえましょう。

② 親子で違うところ ~ 行動様式 〔H25.12.09〕

●人間の場合と同一です。 個性があります。

●『漱石』と『漱石』の親猫とは 体形 仕草 体毛色 目の表情 は全く同じで 夕暮れ時などで薄暗い所に親子が一緒にいる場合は 見分けがつきませんでした。 しかし 当方の帰宅時への対応には 異なるものがありました。
・親猫は 停車時に当方が運転席から視認できる位置に必ず佇んでいましたが『漱石』は無反応で宅内で動こうとはしませんでした。
〔 過去形での記述としたのは 最近になってからようやく 通常の家猫と同様に宅内での反応 を示すようになったからです。〕
・この事象は 親猫と『漱石』との生誕時での当方の関与の仕方の違いが 差異を生じる一因にもなっているものと判断しております。
〔 関与の相違した背景については 別途触れることとします。〕

●『漱石』の仔猫のうちの獣医の名付けた『ゴマ』についてです。
・当方は俗にいうキャットフードでの餌付けしかしておりませんので 他の食することのできるものでも口にしないはずですし『ゴマ』以外の猫たちは口にしませんでした。
〔 本能として 小動物の捕獲はしますが捕食はしません。〕
・しかし 『ゴマ』だけは当方が食するものはすべて欲しがりましたし 酢の物以外は口にもしました。 アイスクリームも然りです。 何ででしょうか 未だに『ゴマ』にだけの現象であった理由は分かりません。

●排泄行為についてです。
・親猫は目のあいた直後〔 この背景については別途触れることになります。〕から《猫用トイレ》を探してよじ登り 排泄行為を完了させたことに驚嘆しました。
〔 このトイレは極小サイズのものを用意したのですが外縁高は10cm前後で 当時の親猫の体長は当方の掌中に充分収まるものでしたから ヒトの乳児と対比した場合 この よじ登る 高さは如何程に相当したのでしょうか 〕
・しかし『漱石』とその仔猫たちは 排泄行為の対比に関しては 全くデタラメなことをするために苦労をさせられました。
・『漱石』は今もって 真面な《ネコババ》ができません。 砂かけの仕草はするのですが排泄物が隠されていないので実効性がないのです。
〔『漱石』の生誕時は外敵への防御を必要としなかったことから 本能の一部を喪失していたのかもわかりません。〕
※ 親猫は 首を銜えられての移動しかできない状況下で この親猫の《親猫》から引離されたため当方が引取った という経緯から親猫の当時の排泄行為は本能のみによるものであったといえましょう。

●上述の実態からすると 同一種の動物にあっても個体によって本能に差異が生じている との推測をしております。  

③ 《巣立ち》させること ? 〔H25.12.11〕

・野生ネコ科動物にも 仔に巣立ちを促す生態 のあることは周知のことです。

※ ネコたちの関係が複雑なので ~ 関連のご説明をしておきます。
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*  親猫の《親猫》⇒ 親猫 ⇒『漱石』⇒『ゴマ』たち
*  -                           ↓
*                           ・→ ⇒ 『クロ』⇒ 雄の仔
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●親猫と『漱石』と『ゴマ』たち の間で繰り広げられたことに触れます。
・親猫は『ゴマ』たちが哺乳を必要としなくなった時期以降『漱石』と『ゴマ』たちが近寄ることを拒否しはじめました。
・それにもかかわらず『漱石』と『ゴマ』たちは 親猫 に近寄ることを止めませんし 親猫は拒否を続けますので 仕方なく双方の生息範囲を宅内で区分しました。
・区分後も『漱石』と『ゴマ』たちは 区分の境界際で親猫を呼び続けました。これが原因となったのでしょうか 暫くたっての後 親猫は家を出てしまいました。
・ただし 家を出て行ったことが 巣立ちを促すこと とに関連性があるのか否かについては確証がありません。
・不可解なことは『漱石』に哺乳が不要となったときには 親猫に上記のような拒否現象は認められなかったことです。
〔 また 親猫には『漱石』の仔猫たちに授乳したという経緯があります。〕
●上述②の親猫の生誕時との比較です。 親猫の生誕時は野良であったことから 絶えず外敵に備えを必要とする環境でしたが 『漱石』の場合は 何らの防御も必要としない環境(※)でした。
(※)親猫が定期的なテリトリーの巡回時には『漱石』〔と後述の『クロ』〕の首を銜えてやってきて 当方に託して外出していました。〔 余談となりますが『ゴマ』たちは当方の寝床の中で生まれましたので2か月余の間というものはシーツの取替えなどができませんでした。〕
・この生誕時の相違が 巣立ち という本能に関連しているのか否かについても確証がありませんが・・・。
●また『漱石』を中央に据えた親と仔たち の状況とは全く異なる他の猫たちの現象を目にしてもおります。
・三代に亘る猫たちが 当方の管理下にある箇所で一緒に生息していたことの事実です。
・この状況は 他箇所の屋内でではありますが 当方が係わっていたことです。
・ただし この猫たちの生誕時のそれぞれの詳細やどなたかの家猫であったのかは不明ですので 現象のみの記述に留めます。

④ ~ ⑥ 〔H25.12.13〕

④:母性本能 ?
⑤:ヒトの乳幼児と比べて
⑥:中締め です

※ 各本文は コチラ からご覧ください。

⑦ 続・中締め です 〔H26.03.07〕

・⑥の末尾記載の内容を補充しました。
・ こちら からご覧ください。

※本文に記載の 引用文献リンク先(別掲)は ⇒ こちら です。
・目次と出典を併せてご参照ください。

⑧ 続・中締め です(2) 〔H26.03.10〕

・《いじめ》を隠し持っている環境に立ち向かうには 大人と児童生徒とによる不断の努力が 車の両輪のごとくに肝要であることは周知のことであります。
・この〔努力〕に匹敵すると判断される記事をご案内します。
・ こちら からご覧ください。( ← 現在 残念ながらサイトの所在が不明です : '17.09.19 )
・我国の多くの人たちには 〔いのち〕について考えること の教示する方法を何時からか遠慮している嫌いがあるのでは と思料しております。

※〔当方は《いじめ》と《非行》とが同軸上のものであるとの観念ではありません。いじめと非行のいずれに対峙したときにも『生きる』ことの意義が認識されることによって有意義なものとなると思料しております。〕
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